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眞譽
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男性
誕生日:
1965/06/28
自己紹介:
香椎の会のブログです。
講義の感想や日々思ったことを綴っていこうと思います。

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父の祥月命日に思う

今日は、父の祥月命日。平成25年1月27日早朝、父は大病院の片隅で亡くなった。
父の生涯を考える機会を頂きながら、正信偈をあげた。
父の生涯は全て私の為にあったのだと、そう思う。
私の為ということは、私が私の一生を全うすることである。
全うするとは、「本来の私」へといのちが尽きるまで歩むことである。

つらつらと聖典を拝読しておるとつい目が留まることがある。
今日は特別な日なだけに、気がつかない深い思いが目を留めさせたのかもしれない。
今回、目に留まったのは教行信証化身土巻。
教行信証の化身土巻の一つのクライマックスでもある「悲歎述懐」の後の「三願転入」の後、
ご自釈での「五説」そして「四依」の部分の最後の方。
これは「大智度論」からの引用で龍樹の文言である。

「依智」とは、智はよく善悪を籌量(ちゅうりょう)し分別す。
 識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。」(谷派p.358)

現代語訳
「真実の智慧に依るとは、その智慧はよく善悪を比較し区別するが、心はただつねに楽しみを求
めるだけで、肝心の正しい道にはいていかない」(石田瑞麿師訳)
とある。
この中で「識は常に楽を求む、正要に入らず」の部分。
「識」はここでは「心」と訳しているが、私としては「外界からの影響を受け、反応したもの」
と捉えたい。「心」とは「反応」である。ただの反応であるから、ぶつかって反射したもの、
とも取ってよいかと思う。「反射」するのだからどこに向っていくかわかったものではない。そういう在り方が「識」=(私たちの)「心」なのである。

また、教行信証に戻るが、上記の後にご自釈があって、道綽禅師の「安楽集」が引かれてある。
そこに、私たちの在り方を色々な呼び名で呼んでおられる。
「信想軽毛」(風で飛んでいく程軽い毛のような信心)
「仮名」(ただの概念の塊)
「不定聚」(悟れないもの)
「外の凡夫」(外道凡夫…凡夫の下の下)
等と手痛い表現をされている。
そして、その引文の後、「大集月蔵経」を引かれて、そこに
「痛焼の衆生」
とある。これは、本当に胸が痛む表現だ。こんなにも痛まれているのは
「識は常に楽を求む、正要に入らず」
からであろう。これは他人事ではない。「私」のことである。
「如来、痛焼の衆生を悲哀して、特(こと)にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。」
(谷派p.359)
ここが大無量寿経の流通分につながる文言となっている。

「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲哀愍をもって特(こと)にこの経を留めて止住すること百歳せん。」大無量寿経・流通分(谷派p.87)

ここをもって、私の人生が全うされるには、我が在り方を知らされ、仰ぎ見る世界の中で
「本来の私への道」を歩むほかないのであると知らされることである。
「願生浄土」の歩みほかないのである。
「願生浄土」が「欲生我国」に支えられているのである。

拝 眞譽



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